伊東宣明「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」
2021年1月30日(土)- 3月7日(日)
伊東宣明
Nobuaki ITOH

2020年12月にThe 5th Floorで開催された、伊東宣明 個展「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」の展覧会アーカイブと作品を紹介します。

[概要]
伊東宣明 個展『されど、死ぬのはいつも他人ばかり』
会期:2020年12月12日(土) – 12月27日(日)
会場:The 5th Floor(〒110-0008 東京都台東区池之端3-3-9 花園アレイ5F)
主催:The 5th Floor
共催:HB.
キュレーション・企画:髙木遊
協力:WAITINGROOM、渡辺歯科医院、五十蔵
詳細:https://ja.the5thfloor.org/exhibitions

[The 5th Floor]
The 5th Floor(ザ・フィフス・フロア)は2020年2月、根津・池之端に誕生したオルタナティブスペース。元社員寮の均一的なようでそれぞれ異なる5階3部屋、あるいはバルコニーや屋上など特有の空間を活かす、意欲的なキュレーション主導のプログラムを発表する。
また、展覧会に加え、地域大学によるワークショップや、国内外キュレーターを招請し展覧会を制作する「Curator in Residence」など、次世代のアーティスト・キュレーターの出現を支援する取り組むを行う。


Photo by Jukan Tateisi
 
[展覧会ステートメント]
 「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」。
『物語』の終わりを示唆する碑文だ。終わらない『物語』など存在してはならない。
「されど」その接続詞には、デュシャンの死に対する哀愁と遺棄が込められている。この碑文を読む私たちの胸は締め付けられる。

 伊東宣明はこれまで『死と生』『精神』『芸術』など、近代化の激流のなかで儀式化・制度化された鉤括弧付のテーマを中軸に制作を続けてきた。伊東はそれらの鉤括弧を取り外し、祭儀的な文脈から現実に解き放つことで、鑑賞者に鮮烈たるエモーションを喚起させてきた。

 本展『されど、死ぬのはいつも他人ばかり』では、あらゆる出来事の不可逆性をテーマとする『時は戻らない』(2020)、風景の既視体験(デジャブ)と未視体験(ジャメヴュ)の隙間をテーマにした『0099』(2008, 2013)、芸術表現における物語論『フィクション』(2018)に加え、不可視かつ実体のない『死』への接触を試みる『回想の遺体』(2010)と作家が自身の肉体を分割し、再集積させる『蝋燭/切り花/眠り/煙』(2020)を紹介する。

 これらの作品は通底して、儀式・制度化された事象を「脱鉤括弧する」手法を用いて、『死と生』『自己』『時』といった根源的かつ非実体的ものをテーマとしている。
 
 これら『』付の事象は人間が作り出してきた『物語』である。そして、この諸『物語』の特徴は、内包される『時間』のあり方だ。『物語』における『時間』は、可逆的であり、さまざまな異なる時制の乱立が可能だ。しかし、現実において、私たち人間一個人が対峙する時間は、不可逆的であり、線形であり、かつ終わりがあるかのように振る舞う。こうした『時』の様相に対し、私たち人間は近代化、産業化、ありとあらゆるテクノロジーを駆使して抗ってきた。しかし、未だに克服——リアリティを伴った転覆——には至っていない。だからこそ人間は『物語』を生み出し、そのなかで『死と生』を享受する。『終わらない物語 Never Ending Story』とはよく言ったもので、私たちは『物語』の『終わり』に目を背け生きることはきっと叶わない。

 『時』に飲み込まれるあらゆる事象は、現実にて物語化され、『』を、実体を獲得する。しかし、その実体は虚構と表裏一体になっていることを忘れてはならない。そして、『物語』において、『時』は一元的ではない。『』の外側にある、認知してこなかったもの、見えてこなかったものを、呼び起こすのが『時』に反逆する『物語』の役割なのである。

 『されど、死ぬのはいつも他人ばかり』。
「あなたの死は、私にとって、もとより他人の死であるしかないわけですが、思いがけないほどの喪失感で──あなたと一緒に、自分の中の一部が欠け落ちてしまったような淋しさの中にいます」
 山田太一は、寺山修司への弔辞においてこう述べた。人は死ぬ。『物語』は必ず終わる。人間一個人が自分自身の『物語』の終わりを見ることはできない。それは伊東というアーティストにとっても同じであろう。本展は、伊東によって紡がれる『物語』に私たちをいざなう。

髙木遊

[展示作品]
期間限定(1月30日〜3月7日まで)で、展示作品のうちの3作品を以下でご視聴いただけます。各作品のテキストは、ステートメントと同じくキュレーターの髙木遊さんが執筆してくださいました。
作品は販売しておりますので、ご興味のある方は、info@waitingroom.jp までお問い合わせください。


『0099』
2013年、シングルチャンネルビデオ、サウンド、24min.11sec.
ドローイング付きのオープンエディション
¥3,000+税

本作は、00から99までの数字が印刷された紙をビデオカメラのズームアウト機能のみを用いて撮影されたものである。一見映像は永遠にループするように見えるが、微妙な差異が生まれている。本展では、1階エントランス部に2013年版、5階階段部に2008年版が展示され、ウェルカムピースあるいはエンドピースとして機能し、その象徴的な音声も相成って、鑑賞者を風景の既視体験(デジャブ)と未視体験(ジャメヴュ)の隙間に誘う。


『時は戻らない』
2020年、シングルチャンネルビデオ、サウンド、19min.14sec.
Ed.10 (A.P.2)
Ed.1-3:¥120,000+税(Ed.4以降ステップアップ)

本作はあらゆる出来事の不可逆性をテーマとしている。逆再生のロードムービー内では「時は戻らない」、「全てを押し流す」と歪な伊東の肉声が現実に楔をうつかのごと繰り返される。現実世界の「時」とは不可逆的かつリニアなものである。この時間の摂理に、私たち人間は近代化、産業化、ありとあらゆるテクノロジーを駆使し、抗ってきたが、その転覆にはいまだ至ってはいない。また、映像における犬の鳴き声、自然、環境音は、逆再生にも関わらず、違和感を感じることはなく、こうした現象を通して、人間存在がいかに特異であるかが浮き彫りとなる。


『蝋燭/切り花/眠り/煙』
2020年、シングルチャンネルビデオ、サウンド、30min.
Ed.10 (A.P.2)
Ed.1-3:SOLD
Ed.4-5:¥180,000+税(Ed.6以降ステップアップ)

伊東が自身の肉体を分割し、合成させる本作は、『回想の遺体』とは対照的に、自身の肉体をある種の死体として取り扱おうと試みた作品である。延々と皮膚とめくり続ける伊東の反復運動は、生命の新陳代謝のような、生死の往々たる循環を想起させる。伊東が口ずさむ言葉は死を暗示するものだが、逆説的に生への渇望とも取れる。自らの死を知覚し、慮るのは常に他者である。しかし伊東は自身の肉体に一つの死を迎えいれることで、『死』ひいては『生』を痛切にまなざしている。
 
 
以下展覧会風景
Photo by Jukan Tateisi

INSTALLATION VIEW
WORKS
蝋燭/切り花/眠り/煙
2020
single channel video with sound, 30min.
0099
2008/2013
single channel video with sound, 24min.11sec.
時は戻らない
2020
single channel video with sound, 19min.14sec.